2011年1月10日月曜日

劣化する日本人の遺伝子

動物としての人間である俺は、野生を忘れてなるものかといつも思いながらコンクリートで埋め尽くされ、夜も無闇(なんてぴったりな言葉だ!まさに闇が無いのだ)に明るい街を歩いている。
人間は本当に弱い動物だ。精神的な話ではない。生き物として、弱い。
テントがないと寝られない動物なんて人間だけだ。だから(?)こんな重たい脳みそを持っているわけだが。一度でいいから自分の足で90km/hで大草原を駆けてみたい。たぶん居酒屋で不味い酒を飲むよりははるかに楽しいだろう。

今日は、コルベットを乗り回す大和撫子に教えてもらった興味深い話を皆と共有したいと思う。

彼女は東京で産婦人科医として働いている。
その彼女と以前話した時に、突然「私は日本人の遺伝子は劣化していると思う」と仰るので、思わず身を乗り出してメモをとりながら話を聞いた。俺はこういう突拍子もないというか、なかなか聞けない話をしてくれる人が大好きだ。
彼女曰く、日本人の遺伝子が劣化しているのではないかと彼女が危惧する理由は二つ。

①不妊治療、より具体的には体外受精児の多さ(どれぐらいが体外受精で生まれているかは後ほど)
②島国日本の”近親相姦”(この過激な言葉は当然僕の言葉使い)

順に説明していこう。専門的な知見は彼女から頂いたものの、言葉は全て俺のものであり、したがって文責は俺に帰することは言うまでもない。

体外受精とは、母体から卵子を採取し、体外で精子と受精させて受精卵を子宮内に戻す不妊(=通常の性交渉がありながら二年間妊娠がないこと)治療である。
”自然”をどう定義するかは兎も角、高度な医療技術がなくては受精卵として胚が発生しえないのであるから、とりあえずこの体外受精は”不自然”な妊娠過程と言ってよい。
この体外受精を経て生まれた子供に、明らかに障害が多いという証拠はない。同時に、なんらの影響もないという証拠もまた存在しない。また、体外受精によって生まれた子供が不妊となる確率如何についてもまだ明らかではない。恐らくこれは、体外受精が比較的最近一般化した医療技術であるからだろう。

さはさりながら、女性が高齢であったり、男性の精子の数が少なかったりして、自然には妊娠しないはずの夫婦やカップルにも子どもができるようになったことの意味を考えてみるべきだろう。
俺や貴様が今生きているということ、生まれてきたということは、生物界の自然法則が支配するところの、「優勝劣敗」(優れるものが勝ち、劣るものは敗れる)の戦いを勝ち抜いてきた優秀で強い遺伝子を持っているということだ。そもそも、数億の精子が卵子に向かって「よーいドン!」で駆けっこをして一番になったもののみが人間として誕生している。

体外受精というものは、個人(=親)の欲望をよく実現する非常に便利な技術でありながら、この地球に暮らす一個の生命としての人間の遺伝子(日本人の遺伝子)を劣化させているかもしれない。
自然淘汰に勝ち残れない(=自然には妊娠できない)遺伝子が、残されるのだから。
そして、現在どれくらいの子どもが体外受精で生まれているかというと、50人に1人。クラスに一人いてもおかしくないレベルだ。

あぁ、もうどこからか聞こえてきた。
「お前はヒトラーか。優生思想を唱えるのか!」という声が。
批判はごもっとも、かもしれない。「強い遺伝子のみが国家のために生き残るべきだ」という軍国主義ウルトラナショナリズムだって、将来あり得ないとは言えない。
だが、忘れてはいけない。我々は、動物なのだ。
我々個人個人に死が待っているように、生物としての人間と惑星としての地球にも必ず”死”は訪れるのだ。そう考えたとき、子孫が強い生物であることはどうしても必要なことだ。別に億万年の話ではなくても、強い生物たる人間かならる軍隊でなければ、戦争に勝つことなぞできはしない。戦争に勝てない、戦争を抑止できない国に平和がないのは、最近お隣の大統領が年頭演説で正しくも言った通りだろう。

ただ、俺は親となった姉(体外受精ではない)の娘の溺愛(おぼれて死ぬんじゃないかと...)ぶりを見ながら思ったのだ。どんなことをしてでも子を産みたいというのも、これまた人間という動物の一つの強烈な衝動であるのだろうと。

次に、②島国日本の”近親相姦”について。

非常に過激な言葉を使ったのは、特に分かりやすい言葉が見当たらなかったからだ。
言いたいことは、日本人は四方を海で囲まれて、さまざまな人種の血が混じり合いにくい環境で数万年を生きてきたということ、そしてそれによって、相対的に大陸の人種混合が盛んな地域よりも、その遺伝子は弱く柔軟性に乏しい可能性があるのではないかということだ。
アレクザンダー大王の東征、十字軍の遠征、バイキングの跋扈。これらは、西洋の歴史だが、これによって人種の交配は格段に進んだだろう。日本は、歴史に於いて一度たりとも外国の軍隊とほの大和島根において戦闘をしたことがない国である。そんな国は、ほかにあるだろうか。ニュージーランドと豪州はないのだが、まぁこれらの国の歴史はあってないようなものである(二カ国の方、ごめんよ)。
そもそも、生物が両性を持つようになったのは、異なる遺伝子を持つ他の個体の遺伝子を捕まえて、謂わばHybridを作りだすことで、環境の変化に柔軟に適応するためだ。つまり、多様な遺伝子の混交が歴史的に相対的に少なかったであろうという事実からすると、日本人の遺伝子は、「優勝劣敗」「適者生存」という自然淘汰の大原則に直面したときに、やはり強くはないのではないかと考えられる。

上記は、なんら実証的に論証されたことではない。たぶん、こんな”Politically Incorrect"なことを言っても学者も政治家も著述家もなんの飯のタネにもなりはせんだろう。
だから、俺がこんな社会の隅っこでちょぼちょぼ書いとる。

恐らく、これからバイオテクノロジーが商売として盛り上がるだろう。
やがてES細胞によって自分の内臓などを再生して”オーバーホール”することができるようになったとき、我々人間は自分の子どもを”デザイン”するに違いない。
優秀な思考力と記憶力を備え、容姿にも優れ、運動能力も人一倍という子どもを欲しがるようになるだろう。それが確実に手にはいる選択肢となれば、必ずそうするに違いない。
受精卵の段階で、自分の子どもが将来どんな病気のリスクがあるのかを知りたいと思うのは、子どもの幸せを願う親としては、ごく自然なことだ。だが、それは突き詰めれば、いわゆるデザイナーベイビーの誕生への一里塚なのだ。
金がなければ、遺伝子のスクリーニングを受けられずに遺伝子に”問題”のある子どもを授かり、金があれば容姿端麗頭脳明晰の子どもを授かれる。
俺が上で述べたように、「強い遺伝子を残すべきだ」という意見からすれば、受精卵の時点での遺伝子のスクリーニングは当然行うべきであるという結論になっても全然おかしくはないのだ。

ここまで来ると、医学だけの問題ではもはやない。
「人とはなにか?受精卵は人か?」(倫理、道徳、哲学)という問題や、
「受精卵は法的主体か?」(法学)の問題になってくる。

そんな未来は、SFだけの話だといいな、と時代錯誤者は思う。
21世紀の専門家は、「僕の専門家はこれだけ」とはとても言っていられぬようになるのだろう。